「コーヒーブレイク」
「佐和子さーん」
背後から、和らげな青年の声がする。
佐和子が、抱えていたフランスパンの包みを持ち直しながら振り抜くと、
年齢は24,5歳ほどか、中背のやせ気味の青年が駆け寄って来た。
親しげなまなざしは屈託がなく、素直な青年の性格が現れている。
佐和子のとまどったような態度に、青年は苦笑しながら
「小田です。小田正樹」
「あ、小田くん・・・」
記憶のパズルピースがかみ合ったような佐和子の表情を見て、
小田は一瞬止めていた息を小さく吐き出した。
小田は、佐和子がパートで働いているレストランのアルバイター。
佐和子がパートで働き始めた最初の日に、仕事の手順を教えてくれた青年だった。
子育ての大変な時期を過ぎ、久し振りに仕事をしたいと思い立った佐和子だったが、
佐和子がOLをしていた時代とは様相が変わり、レジ打ちにしても客の注文を取るにしても、コンピューターが入ってくる時代だ。
理解が遅い佐和子に、小田は要点を解りやすく説明してくれ、てきぱきとした仕事ぶりは利発さを感じさせた。
「時間帯が違うのでお会いすることなかったですけど、仕事、慣れました?」
佐和子より年下なのに、人を気遣う小田の態度に好感が持てた。
「おかげさまで、何とか。最初はいろいろありましたけどね。」
「あ、僕も、最初は発見と疑問の連続でした」
青年の物言いに、佐和子は思わず笑いが出てしまい、
狭い商店街の2人の空間がほのぼのとしたものに変わった。
「小田くんは、この近くに住んでいるの?」
「いえ、学校の近くにアパートがあるんですけど時々ショッピングに来ます」
「学校に通っているんだ・・・」
ちょうど喫茶店の前だった。
「せっかくだから、お茶しない?ちょうど喉が渇いていたの。一人で入るのもなんだし」
「あ、僕も何か飲みたいと思っていました」
午後の喫茶店は、ガラス越しの日差しが室内の空気を映し出し、
埃やタバコの煙が人のうごきと共にゆらぎ、何か安堵感を誘うような雰囲気だった。
海外旅行を趣味にしているマスターが経営しているのだろう。店の片隅に、旅行をしながら仕入れたらしい型染めの布やスカーフ、雑な作りだがエキゾチックな雰囲気のアクセサリー、小物入れなどが並べられていた。テーブルや椅子、そしてタバコの煙で汚れた壁さえも、日本ではなく西アジアの古い店のたたずまいを感じさせる。
親子ほどに離れている2人だったが、旧知の間柄のように話が弾んだ。
「学校って、小田くんは大学終わったんでしょう?各種学校?」
「あ、そうです。映像系の学校です。食えるかどうかわかりませんけどね。あと一年あります」
「ふうん。苦学生なんだ」
「苦学生ってほどではないですけど、学費と最低の生活費は母が出してくれて」
「母って・・・」
「あ、父はガンで亡くなったんです。5年前に」
「じゃあ、お母様。大学と各種学校二つでは大変でしょう」
「母には苦労をかけたと思います。僕不登校したし」
小田の瞼が伏せ、明るかった瞳の輝きが鈍った。
「あら・・・」
佐和子のとまどいを感じ、小田は気持ちを改めるように顔をあげ、笑顔を作りながら言った。
「ごめんなさい。こんな話をする気はなかったですけど。僕の母、変なんですよ。僕が不登校している時、息子は流行の先端を行ってるのよ。我が家は前衛が好きなんだからって周囲の人達に開き直っていた」
「ふふふ・・・面白いお母さんねえ。でも私もそういうところあるかも」
「あ、だからかな。佐和子さんに最初にお会いしたときに、親しみ感じたのは」
「じゃあ。私は小田君のお母さん?ちょっとだけ若いかもよ。我が家には短大生の娘がいるのよ」
わざわざ年齢の違いを強調するなんて、我ながら大人げないと思った。
「ふうん。佐和子さんのお嬢さんって佐和子さんに似ているんですか」
「ぜえん、ぜん!あやつはライバルだわ!」
佐和子の、少々否定的な物言いに小田は退いた。
「いや、同性の親子って難しいかもしれませんね。僕の父も、母と弟の関係を嫉妬してましたから」
「あら」
「別に特別なことではなくて、お互い相手を好きだということを隠さない関係なんですよ。
父は団塊の世代で、少々素直じゃないところがあったから。母が父を嫌いだとかそういうことではなくて」
「そうなのよ。我が家では夫を挟んで私と娘が競いあってるのよ。」
小田青年は、余裕のある表情で笑顔を作っている。
ひとしきり、仕事先のレストランでのお互いのドラマに話の花を咲かせたあと、二人は喫茶店の前で別れた。
佐和子は、久し振りに気持ちが高揚するのを感じた。
「お母さん」
突然の女性の声に、佐和子は一瞬子どもがいたずらを見つけられたような、居心地の悪さを感じた。
声の主は、息を弾ませながら佐和子に肩を並べた。
「お母さんったら、何度も声をかけたのに、聞こえないみたいなんだから」
娘の絵里香だった。
「あら、そう?」
「お母さんと一緒にいた男(ひと)だあれ?」
「あ、見てたの?小田さんって言うのよ。パート先で一緒なの」
「ふうん。レストラン勤務かあ・・・冴えない」
「冴えないって・・・。何それ?皆一生懸命生きているのよ」
「あーまた始まった。お母さんの正論振りかざし」
「小田さんは、アルバイトをしながら学校へ通っているのよ」
「まだ人生は未知数ってわけね。」
佐和子は、我が娘ながら、絵里香の乾いた計算高い冷静さについて行けないものを感じている。
自分が絵里香と同年齢だった頃は、もっと考え方が幼かったようにも思える。
「あ、そうそう。お父さんが、M商事の人事部長さんに話を通しておいたから、履歴書書いて面接に行くようにって言ってた。面接日はあちらから連絡が来るはず」
「あー良かった〜。お父さんの口利きがあればもう入社したのも同然だわ」
「そんなことわからないわよ。同じような立場の人がごまんといると思った方が良いわよ」
「自分で言うのもなんだけど、実務能力そこそこにあるし、容姿だって10人並だし面接クリアだわ。あとは婿捜しかな〜」
仕事に行くのではなく、婿捜しと言う娘の言葉にあきれかえる佐和子だが、佐和子のOL時代も、女子社員の本音はそうだったのかもしれない。
夫の取引会社のM商事は国内でも大手。女子社員は、一般公募をせず、身内のコネクションで入社させる。人間関係が繋がっている分「問題」を起こす率も少なく、身元のハッキリとした若い女性を得られるからだ。男性社員の結婚相手としても考えているのかもしれない。
(全く、戦国時代と同じね)
佐和子は、恋愛や結婚と言ったメンタルなものを含んだプライベートな事まで、仕事と絡み、利益を生むシステムと考えられている世界に違和感を覚えている。
「お母さんは、万年夢見る乙女なのよ。結婚は就職と同じよ。お母さんだってシビアにお父さんを選んだのと違う?」
「それはどうかしら?別の女性を選んだら、お父さんもっと出世したかもしれないし。
たまたま出会って結婚して、たまたまこの生活なのだわ」
「お母さんの主体性ってどこにあるの?」
絵里香の質問にどきっとする佐和子。全て受け身だったかもしれない。相手の思いや行動
を結果的に受け入れただけかもしれない・・・ふとそう思った。
もしかして、自分自身を騙して生きてきたかもしれない。これ以外の人生はないと思いこんで?
自分とは価値観が違う娘だが、今現段階の自分の価値観に忠実に生きて選択しているのかもしれない。
最近の佐和子は、やけに素直な気分になることが多い。娘だろうが、自分より年下だろうが、話していることが自分より上に感じられるのだ。これまでの自分の人生が本当に良かったのかどうか、自信をなくしているのだろうか。これって更年期に近いせいかしら?
昼間のレストラン勤務は、佐和子のお小遣い稼ぎと気分転換になっている。生活のために働かなくてはいけないわけではない。佐和子はそういう自分の境遇を幸運だと思っている。夫が突然リストラ・・・という状態になったら、と想像しないわけでもないが、小さいながらもマイホームがあって、子どもは絵里香一人である。どうにかなる、と裏付けもないがそんな気がしている。絵里香の結婚も、婿養子と言ってもあんな小さな家で同居できるわけもなく、結局は夫と二人の生活になるのだろう。
料理サークルで一緒の年長の友人が、更年期に入ってから精神の安定を欠いて、やたら泣くようになった。
「空の巣症候群と言うのよ」
友人の弘子が知ったように言う。
市民センターでの料理教室が終わってから、佐和子と弘子は喫茶室で缶コーヒーを飲みながら、四方山話をするのがここ数年の習慣になっていた。
「夫や子どもの世話、家事育児で手一杯の生活を送って来た主婦が、子どもが成長して手がかからなくなると、自分の存在価値がなくなったような気持ちになって。夫は夫で他に女を作ったりして。それと更年期のホルモンバランスの変化と重なって、自律神経系が狂っちゃって・・・あーやってられない!!」
吐き出すように言いながら、弘子はタバコに火をつける。
「適当にパートやって、夫が退職したら二人で温泉や郊外のレストランに行って。そのうち夫が脳梗塞かなんかで介護状態になって・・・?あなたそんな人生を望んでいた?」
弘子が佐和子に問う。
「まだそうなっていないし、何も考えて来なかったわ。」
「それでいいの?そんなもんかって?自分の人生」
たたみかけるように弘子が言う。言いながら、タバコを灰皿に力一杯押しつけて火を消すその手が震えていた。
「どうしたの?弘子。弘子は他に望みがあった?」
「私は私の夢があったわ」
「どんな?」
「小さい会社だったけど、キッチングッズを作っている会社にいたの。そこで自分が企画した製品が形になって、ヒットしたときには嬉しかったわ。さもない事かもしれないけれど」
「あなたにはさもない事ではなかったでしょう?」
「そう。でも今の夫が現れて。転勤が多い会社だったでしょう?仕事と家庭とどちらを取るかって・・・若かったのね。離れて暮らしたら心も離れると思った。だから仕事を辞めたわ」
「何か今問題がある?」
「夫に恋人がいる・・・私が果たせなかった夢を実現している若い女性。私だって続けたかったのに。どうして?!」
弘子の皺だらけの目尻に、涙が浮かんでいた。
佐和子はどうことばをかけて良いのかわからず、黙って弘子の目をみつめた。
(つづく)